続:オンライン講義についての話

 以前投稿した以下の記事、『オンライン講義についての話』に対し、批判をいただいたので、今日はそれについての反論をする。

hachi-o-ji.hatenablog.com

 批判とは、僕の当該記事最終文の「本来の大学とは自分の突き詰めたい学問を習得するためにあるのだから。」という部分についてである。

 曰く、「大学は勉強するだけの場所ではない」ということである。確かに大学は勉強をする場であるとともに、サークル活動や友人とのおしゃべり、そして恋愛をする場でもある。これについては異論はない。

 しかし、それがオンライン講義ではなく対面講義を再開するための根拠となりうるか、と問われると少なくとも僕はそうではないと考える。

 

 これについては理由が三つある。

 第一に、大学はそのような行為・行動を主目的として設立されたものではないということである。学校教育法第83条によれば、大学の設立目的は「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させる」ことであるとされている。本条を読めば、我が国が大学生活で恋愛をすることなどを主眼に置いて大学を設置したわけではないことは明らかである。もちろん、そういった行為・行動を僕は禁止しろと言っているわけではない。そういうことをするためにわざわざ新型コロナウイルスクラスターを生み出すリスクを負ってまで大学を開ける必要はないと言っているのだ(実際にこのような行為・行動の一つであるサークル活動においてクラスターが発生している大学もある)。

 第二に、そうした行為・行動は大学生活ではなく私生活において容易に可能であるということだ。事実、僕は大学の友人たちと駅で待ち合わせてショッピングに行ったり、ご飯を食べに行ったりしている。おそらくこういうことを言うと「それを大学でしたい」と反駁されるだろうが、再三申し上げているように大学は学術の中心であるから、そのような行為・行動はあくまで副次的な産物にすぎない。尤も「恋愛学」やら「ショッピング学」やらという科目があって、それをしなければ単位が取れないというのであれば話は別である。それは不当な学術の抑圧であるから抗議すべきである。おそらくそうした特殊な事情があるわけではないと思うため、本当にそうしたことがしたいのであれば、LINEなりInstagramなりで人を集めて、「遊び」や「恋愛」を主目的とした「私生活」の一環として楽しむべきではないだろうか。

 第三に、やろうと思えばそれもオンラインでできるということである。「オンライン飲み会」や「オンラインサークル」、僕もよくやる。顔見せるのが面倒だというのであれば今はいくら電話やメールをしても無料のLINEというアプリが存在する。ここのところそういうことをしているカップルは多い(これについては僕の周りだけかもしれないが)。もし「これでは人の温かみを感じない」というのであれば前述のように予定を合わせて会えば良い。

 以上の理由より、オンライン講義を友人とのおしゃべりや恋愛等を根拠に対面への切り替えを行うという考えに反対する。

 

 ただ、僕も別にオンライン講義をずっと続けて欲しいというのではない。むしろ、ある程度感染が収束したら(例えば感染者数の減少や、ワクチンの開発など)対面講義を復活させるべきであると考える。

 これは、施設使用料を支払っているということもそうだが、「オンライン環境が整っていない学生が講義を満足に受けられない」という点が、憲法第14条の平等権を侵害する可能性があるからである。

 このことについてはまた機会があれば詳しく述べたいと考えている。

 

[出典]

学校教育法第83条

e-Gov法令検索

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200720/k10012524771000.html

 

久々に大学に行った話

 今日は久々に大学へと向かった。

 延期されていた新学生証への交換と健康診断のためであるとはいえ、やはり大学生であるからキャンパスに行くことができることは嬉しい。

 大学に行くと、やはり6,7ヶ月前のそれとは違っていた。大学の名前が変わっていたのはもちろんのこと、知らない間に謎の施設が完成していたり、学内のフレンチレストランは閉業していたり。一番驚いたのは各教室に消毒液が設置されていたことだ。インフルエンザがかなり蔓延していた時ですらろくに換気もせずに席を詰めるよう指示していたあの大学はどこへ行ったのか。

 ただ、唯一変わっていなかった部分がある。それは学生が管理している建物だ。チラシは2019年12月発行のものがいまだに掲示されており、看板も「首都大学東京学生自治会」のままであった。僕の所属しているサークルの部室も例に漏れず、最後にお稽古があった日のまま時が止まっていた。

 

 今年は大人数の対面講義は実施されず、サークルについても準備を含めて2時間以内かつ同時参加人数10人以内という活動制限という茶道部にとっては不可能に近い要件が課されているため、僕は今年大学へ通学することはない。

 来年度には卒業を迎えるわけだが、果たして僕は大学に通えるのだろうか。

 もしかしたら一度も使うことがないかもしれない「東京都立大学」の学生証を見ながらそんなことを考えた。

人と話した後

 人と話した後、自分の発言を省みて「あの時こう言ったのは正しかったのだろうか?」と悩むことはあるだろうか。

 僕はある。

 例えば人事担当者の方と話した時になぜ「御社が第一志望」というアピールをしなかったのかと悩んだり、あるいは友達ともめた時にあそこまで言う必要性はあったのかと悔やんだりする。そして、自己嫌悪に陥る。

 調べてみると、これは「対人恐怖症」の一種らしい。周りの人間が自分のことをどう思っているかばかり気になるというある種の精神的な病だそうだ。あまり意識したことはなかったが、こうしたものにもしっかりと病名があるんだと感心した。

 それはさておき、いちいちそんなことを考えていては埒があかないので早めに治しておきたい。そうならないような対策法を調べてみたのだが、「職場に行ったり、人と出会ったりしたら、まず大きな声で自分からあいさつをしましょう。そうすると相手の気持ちがやわらいで、雰囲気がふっとよくなります。自分からリラックスした印象や雰囲気をつくり出すことができます。」とある。

 それが出来たら今困っていない。

忙しさの話

 皆さんが「忙しい」と感じるときはどんなときだろうか。課題に追われているときや試験直前期、あるいは旅をしているときという答えもあるかもしれない。

 

 急になぜこんな記事を書いているのか、端的に言えば昨日「忙しさ」への認識の差で友人と揉めたからである。

 これは僕の忙しさへの認識が彼と大きく乖離していたことに全て責任がある。

 僕の考える忙しさとは「毎日課題あるいはタスクをこなさなければならず、休む暇もない」とき、つまり数千から数万字のレポートに追われ徹夜といったような状況である。そのため、誰かに「忙しいから無理」と言われた場合、そんな状況を想定する。しかし、友人の考える忙しさとは(これはあくまで自分が感じた限りでは)、「一息をつこうと思えばつけるが、休暇時ほど暇ではない」ときを指していた。そのため、友人が「忙しいから無理」と予定を断っていたにも関わらず、旅行に行こうとするとは何事か、と思ってしまった。

 正直昨日はその「忙しさ」の解釈に少しイラっときた部分もあったが、今考えればこれが普通である。そもそも「忙しい」という言葉は決して予定が詰まった状態を指す言葉ではない(この状態は「多忙」という)。僕がその言葉を都合よく解釈していたに過ぎないし、どこか自分で自分を追い詰めていたのかもしれない。

 

 今回の件はただただ反省しかない。

大学受験の話

 高校の同期と話して居ると、たまに「なんでその大学行ったの?」と聞かれることがある。

 確かに聞いてくるのも無理もない話だ。僕の周りは東大・京大・旧帝大早慶上智錚々たる面子が揃っている。そんな中で「首都大学東京(当時)」という聞いたこともないような大学に進学したのである。担任の先生にももちろん止められた(尤もこれは自分が5月時点で既にA判定を出していたということもあるかもしれないのだが)。

 ではなぜ僕がこの大学を志望し、進学することを決めたのか。

 一つは親が浪人を許してくれなかったこと。実は当初、僕は某旧帝大の法学部を志願しようとしていた。しかし、自分の実力不足もあって高校二年後半からの一年程度では受かることができないラインであった。高二・高三の僕を知っている方なら、僕が5月の河合センター模試の際に今の大学と横浜市立大・埼玉大・高崎経済大という文Aが第一志望とするにしては物足りない大学を志望校欄に記入していたことを覚えていらっしゃるかもしれない。これは親(主に母親)から「絶対浪人禁止宣言」が下達されていたことによる。

 なぜ許してもらえなかったかについては話が冗長になるので簡潔に述べると、「妹が東京の私大への進学を希望しているため」である。

 もう一つは僕自身が公務員を志望していたことである。ヘンテコな名前ではあったものの、東京都立の大学であることに変わりはない(今は名実ともに東京都立大学である)ため、東京都や特別区職員になるためのノウハウを教えてくれる講義がいくつかある。そして、進学先についてもかなり高い割合で公務員が選ばれており、入学する際の難易度に比べれば「お得な大学」とも言える。

 

 こんなことを偉そうに語っているが、実は僕が受けた2018年は二次試験の出題傾向が大幅に変わった年で国語・英語を受けた時点で意気消沈しており、試験前日に合格を決めていた青山学院大学の法学部に進学する気満々だった。

 結果として合格することができたが、もしあの時青学に進学することになっていたらどうなっていただろうか。もしかしたらピアスをバリバリにつけて髪をビビッドカラーに染めていたのかもしれない。

待ち合わせの話

 人と待ち合わせるとき、皆さんはどれくらいの時間に到着するだろうか。

 10分前、時間丁度……様々な意見があると思うが、おそらく待ち合わせ時刻より前に到着するだろう。

 

 ところが、高校の同期と集まる時、この「待ち合わせ」は一度もうまくいった試しがない。必ず誰かが遅れてくるのである。その遅れ時間は10分から2時間までと幅広いが、とにかく遅れる。巷ではこのことを「東海タイム」などと言うらしい。

 この原因は果たして何なのだろうか。ただ単に時間にルーズなのか、はたまた東海という環境がそうさせたのか。

 僕は、彼らが遅刻する遅刻の原因の一つとして「待ち合わせ」という行為自体の重要度の低さと、それに対する考え方の差が挙げられると思う。

 もちろん待ち合わせることは大事なことではあることには変わりないが、例えば飛行機の搭乗や1時間に数本しかない特急電車への乗車などに比べれば時間厳守である必要性は無い。友人と「〇〇時集合ね」と取り決めを交わしたこの「〇〇時」とはあくまで目安に過ぎないからである。この目安についての個々人の感覚の差がこの時間のズレを生んでいるのではないだろうか。

 例えば僕は取り決めを交わした時刻について±15分が限度であると考え、それ以上の遅刻が予測される場合は必ず一報入れるようにしている(自分が原因であれ予想し得ない事象であれ)し、他の人がそれ以上遅れている場合には「(待ち合わせ場所に)着いたよ」と連絡するようにしている。だが、先に述べたようにこの感覚には差があるため、30~40分遅れてきても何の連絡もない人もいればたった5分の遅れでも連絡をくれる人もいる。おそらく東海生は前者が多いのであろう。つまり、目安時刻の範囲が広いのである。

 ただ、遅刻することには個人的にはあまり不満を持っていない。新宿駅や渋谷駅で待ち合わせとなった場合は僕もかなり遅れるし、諸事情で遅れるということがあるのは当然のことだ。

 

 困るのは毎度毎度1~2時間遅れてくるタイプの人間だ。しかも謝罪もなしに「今起きた」と言って平気で遅れてくる。もはや救いようが無い。それを指摘すると「これはもう仕方がない」と返してくる。それはこっちの台詞だ、少なくとも当事者が言うことでは無い。

 

 ちなみに待ち合わせに毎度遅れてくる人への対策をこの記事を書くにあたって読んでみた。

 そんなときは、「遅刻したら飲み代を奢る。」とか「10分以上の遅刻でケーキセットを奢る。」といったようにルールを作ってみましょう。

 おそらく彼は近いうちに破産するだろう。

ESという名の小説

 インターンシップに参加する時も企業にエントリーする時も必ずESを書く必要がある。その長さや内容は企業によって様々だが、ほとんどの企業が必ずと言っていいほど聞いてくることがある。それが「学生時代に自分が力を入れたこと」、通称「ガクチカ」である。

 

 このガクチカというものは学生時代に特に何もしていないような僕にとっては苦痛でしかない。話すことが全く以ってないのである。アルバイトではバイトリーダーのような役職は存在せず、塾講師と和菓子店の店員を勤めるという何の面白みもない経歴。サークルは文化系サークルな上に茶会局長という名前だけ立派な役職。そしてボランティアや長期インターンシップに参加したわけでもない。

 おそらく僕が学生生活に力を入れたことについて忠実に記した場合、「私は朝ちゃんと起きて大学に登校できるよう頑張りました」になってしまう。もちろんこんなことを書いていたら落ちる。となると、自分がいかにすごい人物でどれほど活躍したかという一種の「英雄譚」を書かなければならない。例えば自分がアルバイトで中心的な人物となり、店長にも褒め称えられ皆の手本になった……と言った具合である。正直自分でこんなことを書くのは小っ恥ずかしい。でもこういうことを書かなければ受かることができないのだから仕方あるまい。

 つまらない学生生活を送って来た自分にも非があるのだが、皆が皆カンボジアミャンマーに小学校を建てたり、あるいはスターバックスで働いたりしているわけではないのだから……と、「小説」をつらつらと書きながら思うのである。